- 2004年1月 4日 01:53
- アトピー
35歳にもなって恥ずかしい話だが、私はフランダースの犬の結末がどうしても好きになれない。(作品が名作か否かは別の話。)ネルロが「パトラッシェ、僕もう疲れた」と言って死んでしまうところは、かわいそうすぎるという感じや、弱った幼い一人の子供を過労死、凍死、飢え死にを一度にさせる悲惨な結末への理不尽さしか感じられず、私にはどうしてもそこに感動というものを持てないのだ。
童話はかくあるべきなどお節介なことは言いたくはないが、この物語を読んだ人にこの作品の筆者は何を期待していたのか今でもわからない。「どんな最悪の状況でも一番悲惨な環境下にいる人の魂を神さんが救ってくれるのだ」という信心深い人向けの心のよりどころをわかりやすく教える意図があるのかなとは想像するのだが、「そんなもん嘘。不満をこぼす人に我慢を強いる方便に過ぎん」というのが私の本音である。
私自身が無神論者ゆえかもしれないが、死んだら全ておわり。見えんもんは見えん。おらんもんはおらん。言うまでもなく神や仏などは存在しない。「生きている間」に自分にとって良い結果を得ることがもっとも大切であり、そのためには他責、他人依存は危険、決断は自分、最悪の状況では何に縋っても無意味、それより最悪の状況でも活路を見出す強さ、機転、工夫などにエネルギーを注ぐのが最優先。
そのための自分の決断過程、行動に納得性を持つのに神さんや仏さんが横入りする余地などなく、それは最も無意味であると信じて疑わなかったし、いまでもやはりそう思う。
必要なのは現実直視と、そこから何ができて何ができないかを知ること。また、成功体験や失敗体験から自分の強さや弱さを把握し、努力や学習したり悩んだりすること、難題を一つ一つ克服していくことでしか、達成感や喜びなどの結果は得られない。また、それは死んだ後なんかには決して得られないのは紛れもない事実。
それを捻じ曲げて最初から「負け犬根性」を叩き込むこと、「何とかしようという意志や向上心」をそいでいることは諦めと惨めな結果しか残さない。つまり少ない強者が多くの弱者の思考を停止させて、従順な群集や大衆をコントロールする方便に利用しているだけで、それは哲学でも思想でもないただの悪意に満ちたまやかしなのだと感じている。
あとはお父さんお母さんが自分の子供に「人には優しく」ということを教えるために絵本として読んであげる作品で、自分の子供には最後には泣いてもらいたい作品なのかもしれないが、そこで泣いたら「この子は優しいいい子に育っている」と喜ぶべきなのだろうか?それとも「この悲惨な結末の全ての元凶は貧しさだ。貧しくなりたくなけれ強くなれ。強くなるには。。。。」と言い聞かせるべきなのだろうか?
どっちかを選ばねばならないならば、私自身の人生ならば後者を選ぶが、自分が親にはなっていないので本当に正直わが子にそう言えるか自信はない。
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