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チャレンジドの解説を読んで

チャレンジの最後に「ド」がついているということは受動態の言葉であるが、では自分に挑戦状を叩きつけたのは誰なんだろうという疑問がわく。カイパパさんのblogで【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(2)【用語】チャレンジド=挑戦を受けた人(3)というエントリーが追加された。カイパパさんのエントリーでは「くじ引き論」と「立場の互換性」のそれぞれの説明と考察がされている。

「くじ引き論」~キリスト教世界の価値観


○キリスト教世界では、次のような発想があるから、障害者に対して親身になった福祉が行われているのではないか(仮説)
・障害は、誰かしらに必ずもたらされる不可避なもの
・「くじ引き」をするように、誰が背負うかを決定づけられる(それは神によって)
・そうであるなら、障害者は、他の「健常に生まれた」人のために、(ある意味)犠牲となった人といえる
  →だから、社会(コミュニティ)が責任をもつのだ

ネットに限らず、初対面の人と揉め事を起こしたくなければ、「政治と宗教の話題は出すな」とよく言われ、そのために自分の意見を伝えにくい場面が多々ある。そういう意味ではどうしても私の場合はこのアプローチの説明を書くのをためらう傾向があるのだが、無神論者であるカイパパさんがこの理論の説明をきちんとされていたことには脱帽する。福祉を語るとき欧米のキリスト教精神のバックグラウンドへの言及が避けて通れないのはよくわかった。(信仰の有無は別の話である。)

上記解説項目で「・障害は、誰かしらに必ずもたらされる不可避なもの」は現実として無条件で納得ができる。また、「→だから、社会(コミュニティ)が責任をもつのだ」という結論にも異論は全く無い。
しかし、この結論に至るまでに、間に二項目を加えないと、キリスト教文化圏の倫理観では説明がつかないのだろうか?これは信仰の有無に関わらず道義的なことであり、人として当たり前のことであると思うからだ。

以下はカイパパさんへの反論ではない。また、なんらかの信仰を持つ人を攻撃する意志はない。しかし、私に信仰を強要する人が現れた場合は徹底的にそれに抵抗することをあらかじめ書いておく。また、神を信じるか信じないかという議論が一人歩きしてフレームになることがたまにあるが、私はそれには関わるつもりは無い。宗教的倫理観という言葉があるが、私の場合、宗教と倫理を敢えて切り離して考える傾向があるのでそのつもりで読んでいただきたい。

「・「くじ引き」をするように、誰が背負うかを決定づけられる(それは神によって)」と「・そうであるなら、障害者は、他の「健常に生まれた」人のために、(ある意味)犠牲となった人といえる」などというまだるっこしい説明を加えられないと道義的立場をとることができないのならば、キリスト教徒(だけではなく、何らかの信仰がある人)というのはアホばっかりなのか?と感じるのである。(おそらくそんなアホばっかりということはないとは思うが。。。。或いは信仰を持つ人にはそういう自分より上位の絶対的存在が必要なのかもしれない。。偉大な神のもとではアホでなければならないのかも。ソクラテスの「無知の知」に通じなくもないが、なんだかなあ。。。。。)

キリスト文化圏の国で育った人には普通に受けいれられることなのであろうが、私は以前フランダースの犬の結末は美しいのか?というエントリーで少し書いた通り、神(仏)の存在は決して認めない。(また、信仰のある人に「神など信じるな」と強要するつもりはない。)また、神の存在を背景に、人が神の代弁者として人を支配する構図が事実上存在していることを悪と見なすという価値観が私の根底にある。たとえば、創価学会と公明党は私の価値観では政教一致であり明らかにクソであると見なす。また、共産主義は悪平等をばら撒き堕落と無気力しか産まずこれはもっとクソであると見なす。ファシズムやネオナチに心酔する狂信者も同様に悪であると見なす。宗教カルト、商業カルトは更に最悪と見なす。また、その他新興宗教も同様である。むしろ私はそれを強く嫌っているからと言い切っても良い。信仰心が厚い方々にも立派な方もたくさんいることは認める。しかし、申し訳ないがくじ引き論は私の耳にはこう聞こえる。

「おめでとうございます!あなたは神から選ばれました。あなたには試練が与えられました。これを克服すべく生きていけばあなたの魂は救われます。そして、神はあなたを見ているだけで何もしませんよ。また、とても険しく厳しい道ですが、あなたが困難に陥ったとき、神から選ばれなかった人間にサポートさせます。」

また、挑戦状を叩きつけたのは「病気」「障害」という事象そのものであって、それは誰もがその状況に直面する可能性があるということ以上でも以下でもないと思う。確かに14歳のときにいきなりアトピー(ステロイド依存状態)になった時に、それを結果として「ああ、僕はアトピーになったんか。。。」と受容せざるを得なかったが、「当たりくじ」というような発想での受容は決してできなかった。また、25歳の時のステロイドをやめる決意をした時も、その後のリバウンド症状が出てくること、その苦痛が尋常ではないことを事前に情報収集して「ああ、そうなるのか」という現実を想像し、そしてその症状が実際に現れたときも「ああ、出てきた」とその現実を直視し、症状が改善したあとに「あのときはしんどかった」と胸をなでおろしている将来の自分の姿を強く思い描き、「ではどう乗り切ろうか?」ということを考え、症状が治まるのをひたすら待った。そこには神などいなかった。これは明らかに「はずれくじ」であり、「当たりくじ」などと解釈させて慰めんとする神父が当時の私の前に現れていたならば、「五月蝿い!そんなええ当たりくじやったらお前に全部やるわい!」と言いながら、その神父の咽喉下に包丁を突きつけ、かっ切っていただろう。(私がキリスト教社会の国で生まれ育ってたらどうだったかはわからないが。。。)神への冒涜と言われようが、火あぶりの刑に処されようが本能的に私はそう考える。つまり、このロジックで「チャレンジド」という状況を受け入れることは決してなかっただろう。(感情論たっぷりで申し訳ないのだが。。。)

反面、「立場の互換性」に関しては、「ふむ、ふむ」と違和感なく受け入れやすいロジックであると感じた。

「立場の互換性」


★6 立場の互換性(交換可能性)=福祉を支える倫理的根拠○障害者は「特殊な存在」ではない
○障害者は「特殊な存在」ではない
・人間はだれもが加齢や病気、事故によって障害者となりうる
  =今、「健常」な状態だとしても将来はわからない
・また、一定の確率で障害をもった子どもが生まれる。
  =あなたも「障害児」の家族になるかもしれない
→全ての人が、福祉の受益者となりえる=つまり、いつか立場が換わりうるということ(立場の互換性)
  =それは遅かれ早かれいつか来ることであって、現在福祉の対象となっていることを恥じたり、卑下したりする必要はない
 言い換えるなら、福祉は、「全ての人のためのセーフティネット」なのです。これがなければ、人は安心して子どもを産むことも暮らしていくこともできない。

人生を時間軸でとらえるならば、誕生があり最後に死がある。これは誰もが避けて通れない。その過程において、健康なときもあればそうでないときもある。特に「→全ての人が、福祉の受益者となりえる=つまり、いつか立場が換わりうるということ(立場の互換性)
  =それは遅かれ早かれいつか来ることであって、現在福祉の対象となっていることを恥じたり、卑下したりする必要はない」
という項目は私には新しい発見であった。1995年のサイト開設当時、私は「福祉なんかの施しには頼りたくはないですが」という記述をしている。これは言葉遣いがきつく、不適切な表現であったかもしれない。また、虚勢を張っていたんだなと取られるかもしれないが、「自力で生き抜いてやる」という自分の意思表示の意味も込めていたつもりであった。今後は表現方法を改める必要があるなと感じた。

我々アトピー患者の自主自立には何が必要か、どんな行動が必要なのかをカイパパさんの活動を見ながら今後も学んでいこうと思っている。

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