- 2006年1月13日 11:24
- その他
小泉首相は12日午前(日本時間12日夕)、イスタンブールのホテルで、1985年のイラン・イラク戦争の際に日本人を救出したトルコ航空の元機長、アリ・オズデミル氏と会い、感謝の意を伝えた。当時、政府は日本の航空会社に邦人輸送を依頼したが、調整に手間取ったため、トルコ政府に輸送を要請。オズデミル氏は機長として、日本人約200人を救い出した。
この記事と100年前(厳密には今から遡ると110年以上も前)と何か因果関係があるのかと疑問をもたれる方もいるかもしれない。確か、1800年代の終わりの頃に、トルコの軍艦が遭難して、和歌山の某所の村の人が救助に尽力したことをトルコの人々は忘れていなかったというようなレベルでのうろ覚えの記憶がよみがえってきたので調べてみると、「エルトゥールル号遭難事件」というキーワードにたどり着いた。イラン・イラク戦争当時、私は中学生か高校生だったが、当時もこの「エルトゥールル号遭難事件」という言葉自体知らなかった。
エルトゥールル号遭難事件(えるとぅーるるごうそうなんじけん)とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul Firkateyni)が、和歌山県串本沖の熊野灘(紀伊大島の樫野埼灯台の東方沖海上)で遭難した事件。この事件は、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。(引用中略)
1890年(明治23年)9月16日夜半、エルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ、和歌山県樫野崎灯台沖に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して爆発、沈没した。灯台下に流れ着いた生存者が数十メートルの断崖を這い登って灯台に事件を知らせ、灯台守の通報により大島村(当時)の村民が総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、島民は非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの回復に努めた。この結果、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明となる大惨事ながら、69名が救出され生還することができた。
やがて事件は和歌山県を通じて日本政府に伝わり、心を痛めた明治天皇は政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。こうして医師と看護婦が和歌山県に派遣され、さらに生存者は日本海軍の「比叡」「金剛」2隻により無事トルコへと送り届けられた。
ただ、当時の歴史的背景から、
エルトゥールル号の遭難は大きな衝撃を呼んだが、オスマン帝国の専制君主アブデュルハミトのもとでは人災としての側面は覆い隠され、天災による殉難と位置付けられ、新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。
こういう裏の面(或いはお上のご都合で歪曲された部分があるにしても)があったのは残念な部分もあるが、当時の時代背景から仕方ない部分もあるかもしれない。それでも庶民同士、個人同士としては100年以上も前でもこのような人間同士の交流があったということは何か嬉しいものがあった。我々が学生時代に学んだ歴史の授業にはノルマントン号事件はキーワードで出てきていたが、このエルトゥールル号遭難事件に関しての記述などなく、思うに我々の受けた歴史教育はことさらに自虐史観たっぷりの虫食い状態の近代史教育だったような気がする。その影響か否かは別として、テヘランでの法人救出が行なわれた当時の朝日新聞のあまりにもひどい記事の書き方にもそれが如実に現れていたという情報があった。
■2.日本・トルコ関係史に無知な朝日■遠くでその歴史を知っている国の人の話す事実を伝えようとせず、歴史を知らない?記者による推量でスルーという失態をここでもやっていた朝日。なんか日本人として恥ずかしい。
こうして、もはや万事休すと思われた土壇場、翌20日の朝刊に「テへラン在留邦人希望者ほぼ全員出国/トルコ航空で215人」という朗報が載った。何とトルコ航空機がテへランに乗り入れ、邦人215人を救出してくれたのである。まさに間一髪であった。掲載された写真には無事脱出できた子供たちを含む邦人家族の喜びの顔が写っている。さて、ここで考えなければならないのは、なぜトルコが危険を冒してまで邦人を助けたのかということであるが、この疑問に対して朝日新聞の記事はこうである。
すなはち「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化していること」などが影響しているのではないかと、当て推量を書いてお しまいなのである。自国の歴史に無知とはこういうことを言う。日本とトルコには歴史的に深いつながりがあるのだ。この記事を書いた記者が知らないだけである。
無知だけならまだしも、金目当ての行為であったかのように書くとは冒涜もはなはだしい。トルコは長いあいだ日本に対する親愛の情を育ててきた国である。■3.駐日トルコ大使のコラム■ その証左として、昨(平成9)年一月の産経新聞に載った駐日トルコ大使ネジャッティ・ウトカン氏のコラムを紹介する。
これを読むだけでも、トルコが何故日本に親愛の情を寄せるに至ったかの消息が明らかになろう。それは日露戦争をさらに遡る明治二十三年の出来事に端を発している。勤勉な国民、原爆被爆国。若いころ、私はこんなイメージを日本に対して持っていた。中でも一番先に思い浮かべるのは軍艦エルトゥルル号だ。1887年に皇族がオスマン帝国(現トルコ)を訪問したのを受け1890年6月、エルトゥルル号は初のトルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。三ヵ月後、両国の友好を深めたあと、エルトゥルル号は日本を離れたが、台風に遭い和歌山県の串本沖で沈没してしまった。悲劇ではあったが、この事故は日本との民間レべルの友好関係の始まりでもあった。この時、乗組員中600人近くが死亡した。しかし、約70人は地元民に救助された。手厚い看護を受け、その後、日本の船で無事トルコに帰国している。当時日本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。
エルトゥルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ。ここに挙げられたエルトゥールル号遭難に際して、台風直撃を受けながらも約70人のトルコ人を救助した地元民とは、和歌山県沖に浮かぶ大島の村民である。
今は杉原千畝の生涯に興味があり、これに関しての読み物などを探している。
参考:
トルコ大使館:トルコの時代:日本とトルコの民間友好史:快男児山田寅次郎
トルコ大使館:トルコの時代:日本とトルコの民間友好史:テヘランに孤立した日本人を救出したトルコ航空
南紀のトリビア:オスマン・トルコ軍楽隊は、日本に来ると必ずと言っていいほど串本へ立ち寄る!
エルトゥールル号事件
下っ端街道まっしぐら。【猫餌まぐろ味】:親日国トルコ…正の連鎖への希望
アジアの真実:破格の扱いで歓迎された首相のトルコ訪問 ~親日国家トルコとの歴史~
Japan-Turkey.swf(Flashムービー)
- Newer: W-ZERO3でフルスクリーン動画再生
- Older: 2月放送分のアトピー的自由計画 On the Radio収録日変更